Y@長岡様 ◆中越地震◆私の体験。
◆あの日の私◆
私は長岡市内の会社に出社していました。10月も末に近い
のに暑い一日でした。築数年の鉄筋二階建ての工場兼事務所で、私は事務員を
しています。
その日、別の部署が老朽化の進んだ本社から引っ越して来ました。無事に引っ越しが終わ
り、お茶でも飲もうと女子社員数人で給湯室で
お茶を飲み談笑している時でした。
突然の揺れに(縦だか横揺れだか解んない!)立っていられなくて壁につかまりました。
明かりは消えましたが、すぐに非常灯がつきま
した。
みんな、地震とはすぐ気付けなく、えー今の何ー!と頭が真っ白になった時にまた激しい揺
れが…。誰かが地震だ!と叫び、若い女の子
はきゃーと叫び泣いています。
男の人の表に出ろ!の声でみんな外に出ました。激しい揺れの為、壁や天井から細かい粉
が舞い廊下は真っ白になり変なにおいがするの
で、ハンカチで鼻と口を押さえて外に出ました。
◆
すぐに所長が営業車のラジオをつけました。甲信が震源と言っていました。自分が大丈夫
だと解るととたんに家族が心配になります。携帯
もメールも通じません。
山の向こうが赤くなり火事のようでした。益々みんな不安になり、女性から帰ることになり
ました。余震は続きましたがとにかく帰りまし
た。田舎なのでみんなマイカーです。運転中は震度4まではわかりません。
途中、信濃川を渡るのですが橋の端は段差ができていたり、もちろん信号もついてない状
態でしたが、幸い7:40頃には家にたどり着くこと
が出来ました。家も会社も平地にあり、6キロしか離れていない私はかなりラッキーな人でした。
◆
●家族●
私の家は築11年、雪国によく見られる1階が車庫の3階建てです。その時パパと長男(小4)はお風呂に
入っていました。お義母さんは夕
飯のおでんを作り終え落ち着いたところ、長女次女(双子で小1)は居間でテレビを見ていました。
震度6弱に突然襲われみんな何ごとか最初はわかりませんでした。3階建ての家は外から見
るとプリンをプッチンした時のようにぷるぷるし
ていたそうです。
キッチンの観音開きの食器棚からは食器が落ち床が破片で歩けません。引き戸の棚の食器は
外に飛び出しはしませんでしたが、上部の客用の
ものがほぼ全滅です。
ひどいのが3階です。上下に重ねたタンスの上が落ち(夜中だったらパパは死んでまし
た)ピアノは床を削りながら0.5m程移動、テレビも本
も押さえてないものはすべて落下。以外と悲惨だったのがトイレで、ガラス類の飾りをしていたので破片がひどかった。
(タンクが割れた家もある)全ての窓が開きました。もう、ぐちゃぐちゃです。
お風呂の二人は二回目の揺れの後慌てて服を着て飛び出しました。テレビを見ていた子はす
ぐテーブルの下にもぐり(避難訓練のたまものです)、お義母さんは食器だらけのところをスリッパで歩き、双子と一緒に外に逃げました。
発生から一時間で震度5以上に6回遭い(6弱は二回)子供達は恐怖で怯えています。余震
の合間をみて家に入り必要なものを運んで来ました。
なかなか余震が収まらないので近くの体育館に避難する事にしました。繋がらなかった携帯
も7:30頃から通じるようになり、パパと連絡をと
って体育館に私は会社から向かいました。月明りだけの暗い体育館で私の声を聞き付けた双子は、それまで布団の中でうずくまっていたのに急
に泣き出しました。私も涙が出てきました。やっと我に帰っていろんな感情がまざった涙でした。家族の無事に安心し、だけど家、会社の被害は…明日からどう
するの…
結局体育館も危険という事で出され、車中泊に。続く余震に怯え、妙に冴えざえとした月の
もとほとんど眠れず一晩を過ごしました。
◆よく日以降◆
よく日の朝、集会場に召集がありました。配給です。私の家は7人家族ですが(お義父さ
んは老人会の旅行中でした)配給されたのは、水約500ml、ビスケット4枚でした。一人でなくて家族でですよ!
私の住まいは旧越路町で小千谷市と長岡市の間にあります。さんずいのつく集落名で田んぼ
を埋めたてた住宅地です。家の周りの町並みは何
も無かったかのようでした。隣りの集落は全壊半壊が多かったのですが…。そんなでもライフラインは全て止まっています。
自分の住んでいる所が大丈夫でも、周りの道が駄目だと物資はなかなか届きません。そし
て絵になる被害がないと物資はきません。見た目町
並みが壊れてなくてもライフラインが止まっていれば生活は困難なのに。
◆行政をあまりあてにしてはいけません。◆
悪口ではなく、彼らは自分も被災者なのに私たちのためにやる事があまりにも多く、家に
帰れないほどです。そんな状態ですから、最低限の
備えは自分達でするべきです。特に被災後1、2日少しでもまともに避難生活をしたかったら。子供がいたらなおさらです。
私は衣類は袋にいれて準備していたけど、食料は準備していませんでした。まさか、7人
でビスケット4枚とは思わなかったし…。
というか、まさか自分が被災すると思わなかったです。
◆私自身がこまったことの一部。身だしなみ編。◆
お化粧が落とせない、歯が磨けない、お風呂入れない、洗濯出来ない(つまり下着を変えず
らいのです。女性はナプキンをする事をおすすめ
します)顔も洗わずに出社しなければならない…帽子はこれらを隠すためにも必須アイテム。
大人の私(しかも楽観者)でも受け入れがたい出来事だったのだから、子供はなおのことで
す。私は本当に被害が少なく、車中泊2泊避難所
一週間でした。
家が無事なのに、こんなに避難所にいたのは、双子が家に帰りたがらなかったからです。家
はこわいと。平気そうな長男ですら家で一人にな
りたがらなかったし、(トイレも)3階に行きたがらなかったです。
◆心の傷は見えないだけに、難しい…。◆
感受性豊かな子はなおさらです。しばらく震度1でもかたまっていました。最近は余震もほ
とんど無くなってきたので大丈夫のようですが。
ほとんどマスコミに取り上げられることの無かった越路町でこんなです。震度6、山間部
でこんなですから、地盤の弱い都会では…。
おそろしいです。せめて備えはして下さい!後悔しない為に。
私はあの日以降、常に“なんであんなコトに遭っちゃたのだろう”と思うようになりまし
た。だって誰か来るなんて言ってた?
必死で地震関係のサイトを見て回って、青松サイトを見つけたのでした。あ、解る人いたん
だ…。なんともいえない気持ちです。事前にこのサイトを知っていたら…。でも、予知が非常に難しいという事もしばらくロムって知りました。ならば私も知り
たい。自分の為にも、なによりも子供の為に。
■これが被災者である私の倶楽部入会の動機です。■
関東青松応援倶楽部、進村さんのお話、聞きたかったです。目視ですものね。
ずうずうしいようですが、講演会の様子などを教えて下さるとうれしいです。
行きたくても行けない人って沢山いると思いますよ…。行けた人がうらやましいです。
−小千谷市の友人が体験&写真について協力してくれるので、まとまったらお知らせしま
す。本当にお疲れ様でした。−
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青松地震予知実験管理人 進村より